東郷青児のことば

独特の女性像で知られる東郷作品

東郷青児 01“損保ジャパン東郷青児美術館”より

独特の女性像で知られる東郷作品は、優れた技術に支えられ、極めて洗練された感覚と美意識をもって描かれています。東郷は、誰にでも理解でき、親しめる芸術を標榜しました。独自性と大衆的人気においては、我国でも稀な画家といえましょう。優美でロマンチックな画風は、女性礼讃芸術と評されました。当館では、1914年17歳の時の「自画像」から、当時最も前衛的であった1915年初個展の出品作「コントラバスを弾く」、キュビスムの影響を受けた滞欧作「村の祭」(1923年)、シュールレアリスムの影響からの「超現実派の散歩」(1929年)を初め、東郷様式の円熟を示す「望郷」(1959年)や、晩年のサハラ砂漠への憧憬を秘めた「タッシリ」(1974年)、最後の二科展出品作品「リオ・デ・ジャネイロ」(1977年)に至るまでの油彩70点を含む、素描・版画・彫刻・タピスリーなど約 200点の東郷作品を収蔵しています。

損保ジャパン東郷青児美術館より
http://www.sompo-japan.co.jp/museum/index.html
美の巨人たち 2004年4月10日 放送

東郷青児 02“美の巨人たち”より
世の中に報われるかどうかは、わからない。無名のまま生涯を終える者もいれば、富も名声も掴む者がいる。今日ご紹介するのは、一世を風靡した画家です。自分の名を冠した美術館を残すことも出来ました。亡くなる2年前、高層ビルの42階に。
画家の名 は、東郷青児。
「帝王」と呼ばれた男。 誰もが目にしたことがあるのにじっくり見たことが無い。それが、東郷の作品だと言われます。一目見ただけで、納得してしまうからなのでしょうか?あ、東郷青児だと。今日の一枚は、彼の代表作。「望郷/ノスタルジア」。
砂漠に古代遺跡という幻想的な背景。その前で、まるでポーズを取るようにスカーフを巻いた少女が、風に吹かれています。くびれた腰。しなやかな腕。長い首。現実離れした完璧な肢体が、画家の美意識なのでしょう。マチエールと呼ばれるキャンバズの表情。迷いも、乱れもなく、鍛え抜かれた職人のように滑らかに塗られています。使われている色は、ほんの僅か。グレーと肌色、その微妙なグラデーションで一枚の絵を成立させているのです。

唇の桜色が、一点の暖かさを宿しています。画家は、二次元の人形師のようにどこを探しても存在しない女性像を作り上げたのです。東郷青児の美人画を。

東郷青児は、仁科会という美術団体のドンとして戦後の日本に君臨した画家でした。彼に張りつけられたレッテルは。その毒を含んだ評判とは裏腹に、彼の美人画は、昭和の日本人の心に染み渡っていったのです。一つの記号のように。
そう、絶えず暗い情感と孤独を漂わせる美人画を。
その薄い皮膚のようなマチエールの下に隠されているもの。「帝王」と呼ばれた男の光と影・・・。

仁科会の「帝王」と呼ばれた画家です。終戦後、画家の団体である仁科会の再建に奔走した東郷青児は、展覧会に観客を動員する為に、いつも派手なパフォーマンスを繰り広げました。自らを「興行師」と呼んで。
東郷は、芸術という砦の中から絵画を取り出し、大衆の前にさらけ出したのです。その強烈な人間性とは裏腹に、画家が描き続けたもの。18歳の時に描いた作品、「コントラバスを弾く」。
「赤とんぼ」の作曲家山田耕作の知恵を得た東郷は、カンディンスキーの存在を教えられ音楽と絵画の融合を試みたと言います。その年彼は、山田耕作の勧めで初めての個展を開きました。翌年には、仁科展に出品し、仁科賞を獲得。弱冠19歳の若者は、新進気鋭の前衛画家としてデビューを飾ったのです。大正10年、東郷はフランス留学を決意します。結婚したばかりの妻を残し、パリに向かったのです。しかし、留学費用はたちまち底をつき貧乏の辛酸を嘗る事になります。その腹を埋めるように、ダダ、キュビズム、未来派と新しい芸術を吸収していきました。当時パリには、ピカソという巨人がいました。多くの画家が、その強烈な作風の影響を受けていました。東郷もその一人。いかにピカソの影から逃れるか?自分の絵をみつけることが出来るのか?その苦悩の結晶。旅芸人は、パリの画家たちが好んだ題材です。ピカソのような大胆な構図とフォルム。しかし、独特の湿度と位叙情。

昭和3年、長いフランス生活を終えて帰国した東郷は、疎外感に襲われます。東京は、異国のように馴染めず、絵も熟れないという暮らしが続きました。彼の名を有名にしたのは、或る事件です。19歳の女性との心中未遂。心中事件の年に描いた作品「超現実派の散歩」。東郷青児のもう一つの顔。心の自画像。東郷が西崎盈子と正式に結婚したのは、心中事件から10年後のことです。離婚やアトリエの建設で借金を抱えていた東郷は、前衛絵画を描く傍らで、買い手のつきやすい小さな作品を手がけていきました。女性画を描き始めたのです。長く暗いトンネルを抜け出すように。やがて東郷は、誰もが美しいと思える絵を描きたいと思い始めるのです。「僕は座り心地の悪い理論の椅子を古道具屋に売り払ってしまった」そして、一歩一歩確かめるように自分のスタイルを作り上げていきました。色数を減らし無駄なものを削ぎ落とし単純な線と理想のマチエールを求めて。東郷が、理論ばかりの「芸術」を棄てた時、ひとつの鉱脈を発見したのです。旅の涯に、みつけたもの。それが美人画でした。浮世絵や日本画のような。

デパートにある昭和の遺産です。エレベーターに描かれた東郷青児の絵。あらゆる場所に絵を残そうとした画家です。誰もが手に取れるように。東郷が、暫し比較された画家がいます。美人画の竹久夢二です。大正3年、当時人気絶頂の竹久夢二は、日本橋に自分の絵草子を売る「港屋」を開きました。「港屋」は、作家や画家の溜まり場でした。その中に、17歳の東郷青児がいたのです。「港屋」を切り盛りしていたのは、夢二の妻だった岸たまき東郷は、このたまきに可愛がられたのです。画壇から無視されながらも、庶民にしじされた竹久夢二の美人画。東郷青児は、昭和の夢二のように美人画を描き続けました。人々に愛されることが、画家の喜び。東郷は、有名無名の女達の膨大なスケッチを残しています。その制作は、画家の快楽でした。しかし、油絵は別です。何よりも神経を使っていたのは、その滑らかなマチエール。地塗りはジンクホワイトを使い、鏡のような光沢が出るようパレットナイフで塗り上げます。これが、絵の皮膚になります。出来上がったら、一年間寝かせて使います。絵の制作で最も嫌うのは埃です。アトリエ中を掃除します。虫が入らぬよう、窓は締め切ります。僅かな傷さえつけることが出来ないのです。

使用する色は、多くて5、6色。これを混ぜ合わせ、色を作ります。絵の具に混ぜるメディウムは、炭火で湯煎します。煮詰めて粘り気を出すと、画面に刷毛目が残らないのです。「途中で気に入らない箇所が出来ても、そこだけ描き直すわけにはいかない。指一本、影一つ、気にいらないところが出来てもまた最初から出発し直さなければならない」「薄い絵の具を塗り重ねていって、最後に髪を描き、唇を描いて、筆を置く」この禁欲的な作業が、東郷の世界を作り上げるのです。秘すれば花。広く愛されたその大衆性。東郷の絵は芸術なのか?そんな批評めいた声は、晩年まで続きます。その一方で仁科会のドンの東郷青児は、数多くの名誉を手に入れました。「作家と大衆が作品を通して渾然と融和する境地を常に夢想している。しかし、これは私の理想であって、何をやっても自己本来の持ち味というものは、到底崩せない」絶えず漂う、寂寥と孤独。その暗い叙情を覆い隠すように、咲き誇る女たち。「もう10年若かったら砂漠に消えてしまいたい」それが、晩年の口癖でした。その美術館には、彼が生涯をかけて求め続けた女たちが、ひっそりと息を潜めています。誰も真似の出来なかった皮膚のように薄い絵肌の下に命の鼓動を震わせながら。
「望郷・ノスタルジア」東郷青児、昭和の一枚。

“美の巨人たち”より
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/picture/040410.htm
KINOKUNIYA書評空間BOOKLOGより 近代ナリコさん

東郷青児 09KINOKUNIYA書評空間BOOKLOGより
近代ナリコさん

2009年01月31日『東郷青児―蒼の詩 永遠の乙女たち』野崎泉・編(河出書房新社)

 ロマンティックかつモダンな美女たちを描きつづけた東郷青児。編者の野崎泉をはじめ、ここに文章を寄せた女性たちにとっての青児体験は、女子寮に飾ってあったレプリカや喫茶店のマッチ、あるいは本の装幀であったりした。
 そうした乙女の視線をとおして、画家の仕事を照らしだした本書。ほかにも、白粉のパッケージ、飾り皿や扇子、その絵が店内を飾った喫茶店など、青児の手による生活を彩るもろもろがクローズアップされる。

 吉祥寺「ボア」、自由が丘「モンブラン」、横浜「フランセ」等の洋菓子店の包み紙にいたっては、それだけに一章をさくという充実ぶりである。自立したタブローと向き合うのももちろんすてき、だが、暮らしのなかから叙情や詩情、美や夢をすくい上げることによろこびを見出すのが大の得意である乙女たちにとって、青児描く女性に彩られたこれら包み紙は、甘いお菓子を口にするしあわせと切り離すことのできないアイテムなのである。
 
 モダニズムの花咲く大正の時代に若くして画家としてデビュー、パリでの留学生活、女性遍歴やそれにまつわるスキャンダル。生涯女性を描きつづけ、またとびきりのスタイリストであった青児には、世間が画家という人種にもつステロタイプな通俗性がつきまとう。それはその画業だけでなく、本書に紹介された品々が世に広く受けいけられたことにもよるだろう。

 さまざまな近代絵画のイズムに触れたヨーロッパ生活を経たのち、「大衆に愛されるわかりやすい芸術」というテーゼに辿りついたという青児。それを受け、編者はこの本を「画業の偉大さを讃えた」作品集ではなく、「昭和の暮らしの中に溶けこみ、身近に親しまれていた分野での仕事をフィーチャーしたもの」にしたいと語る。

 雑貨のデザイン、本の装幀、その絵と人生、ゆかりの店の紹介、包装紙ギャラリーとつづき、文章もよくした青児のエッセイやマンガも収録。それまで副次的とみなされてきたであろう仕事を、本来の画業と等価にならべてみせることによって、これまでにない乙女好みの青児本が仕上がった。ここにこそ、「大衆に愛されるわかりやすい芸術」を目指したこの画家のエッセンスがあらわれているといってよい。

 巻末には、青児にとっての永遠のモデルである盈子(みつこ)夫人とのあいだに生まれた娘、東郷たまみさんのインタビューがある。一九七八年、青児が亡くなったとき、スペインへ留学中だったというたまみさんは、父の死に直接触れることがなかった。そのためか今なおその死に現実味をもてない、という話が印象的だ。

死というものが、父にはぜんぜん似合わないし。……サハラ砂漠に行きはじめた頃に、「もうちょっと若かったら、俺、ラクダにのって地平線の向こうに消えてしまいたいと思うんだ」って言ったことがあったんですよ。だから、消えたんだろうと思ってるんです。今でも。
 
 たまみさんはまた、晩年もなお旺盛に創作しつづけた青児を、「一生、ステージの上で演じ続けた強い男」と表現している。世の乙女たちを魅了したさまざまな仕事は、そのほとばしるエネルギーのたまものだったろう。

KINOKUNIYA書評空間BOOKLOGより
近代ナリコさん
http://booklog.kinokuniya.co.jp/kodai/archives/2009/01/post_34.html
蒼の詩 永遠の乙女たち 東郷青児

東郷青児 十万石ふくさやさん“風を待ちながら・・・/BIGLOBEウェブリブログ << 作成日時 : 2009/11/29 14:59 >>”より

蒼の詩 永遠の乙女たち 東郷青児 

年とともに、芸術作品と呼ばれるものに、インスパイされることより、癒されることを望むようになってきている。
興奮はいつか冷めるが、深く満たされた感情は記憶され、持続する。
題材そのものが日常のごくありふれた平安やくつろぎをテーマにしていて、それに魅かれることもあり
一方、この世の摂理からはみ出しているような幻想も、あり得ないがゆえに、日常の逃避場所として確保しておきたい思いにとらわれる。

東郷青児の作品は後者の方である。
青ざめた美少女たちは決してこの世のものではない。
東郷青児自身は、女を描くと少女的な顔になってしまうことの理由として
「人間的な欲望の少しもないような表情」が少女に似るのではないか、と答えている。
彼にとって純粋な少女とは「空想と哀愁を心の糧にしている」。

そんな抽象的な女たちの肖像が昭和という一世を風靡した。
青児の絵がことさら好きなわけでもないのに、胸をキュンとさせる何かがあるとすれば、それは昭和という時代に対するノスタルジーなのかもしれない。
物質的に今よりはるかに乏しかった頃、青児は分かりやすい芸術を目指して、美の大衆化を企図した。
モダンでありながら抒情的な雰囲気があるのは、竹久夢二の下絵描きをしていたという経歴からも首肯される。
画業だけではなく、デザイン万般にわたって活躍するマルチな才能に恵まれていたことも夢二と共通している。
また、ジャン・コクトーの「怖るべき子供たち」は、装丁・挿画はもちろんのこと、翻訳も手がけ、ゴーストライターが翻訳したのではないか噂されたほどの名訳として知られている。

女性遍歴も華やかで、青児の心中未遂事件を取材に行った宇野千代と、その日から同棲生活に入っている。
日本初のファッション誌「スタイル」を宇野千代とともに創刊したことは有名だ。
青児からの聞書きをもとに書かれた「色ざんげ」は宇野千代の作品中でも最高傑作とされている。

最晩年にはモロッコに出かけ、「あと十歳若かったら、砂漠に消えてしまいたい」と語っていたそうだ。
パリ時代末期にはラファエロやボッティチェリに傾倒し、コマーシャリズムの世界で活躍した画家も、ついに永住の住処を、原始的で不変な世界に求めたのだ。
それを思えばこそ、商業的な成功が儚く感じられる同時に、儚いゆえに絵のフォルムも質感も色彩も愛おしいものとして郷愁という宝箱に仕舞われる。

東郷青児の絵は、現在西新宿の損保ジャパン本社ビル42階の「損保ジャパン東郷青児美術館」で観ることができる。
企画展はよく観に行ったものだが、青児の絵はあまり記憶にない。
生活雑貨となった青児の意匠がいつの間にか刷り込まれて、空気のようになっているのが青児のデザインだったのだろう。

※東郷青児 蒼の詩 永遠の乙女たち 野崎泉著 河出書房新社(09.1)

風を待ちながら・・・/BIGLOBEウェブリブログ << 作成日時 : 2009/11/29 14:59 >>より
http://freeport.at.webry.info/200911/article_13.html
八王子市夢美術館 アーカイブス これまでの展覧会の紹介 より

東郷青児 05東郷青児展 女性礼讃
?大正そして昭和を駆けたモダンボーイ?
会期 2010.02.05(金)- 2010.03.28(日)
開館 10:00 - 19:00 入館は18:30まで
休館日 毎週月曜日 但し3/22(月)は開館、3/23(火)は振替休館
主催 財団法人八王子市学園都市文化ふれあい財団
特別協力 損保ジャパン東郷青児美術館
企画協力 株式会社アートプランニング レィ
観覧料 「ご利用案内」ページの観覧料をご覧ください

東郷青児展 女性礼讃 〜大正そして昭和を駆けたモダンボーイ〜
Works of TOGO Seiji
A Modern Boy Running from the Taisho Period to the Showa Period
概要
大正から昭和にかけて活躍した画家、東郷青児(とうごうせいじ)を紹介します。柔らかな曲線と穏やかな色調で多くの女性像を描き、ロマンチックな画風で絶大な人気を誇った戦後洋画界の巨人です。
東郷青児は、10代でヨーロッパ前衛美術の洗礼を受け、フランスで最先端の動向に身を投じます。やがて、前衛的な理論を越えた、優美で親しみやすい独特のスタイルを確立しました。美術は多くの人々が楽しめるものであるべきとの思いから、誰もが美しいと感じる絵画を生み出していきました。
本展覧会では、損保ジャパン東郷青児美術館の所蔵作品から、大正期・フランス留学時代より最晩年に至るまでを、選りすぐりの女性像48点で紹介いたします。

東郷青児略歴
1897(明治30)鹿児島に生まれる。本名は鉄春。幼少時に東京に転居
1910(明治43)13歳 青児の雅号を用い始める
1915(大正 4)18歳 声楽家を目指すが受験に失敗。作曲家の山田耕筰の勧めで個展開催
1916(大正 5)19歳 画家の有島生馬の勧めで二科展に出品、二科賞受賞
1921(大正10)24歳 フランスに留学。1928年に帰国
1938(昭和13)41歳 前衛画家による〈九室会〉結成。藤田嗣治とともに顧問となる
1960(昭和35)63歳 日本芸術院会員となる
1961(昭和36)64歳 二科展(二科会)会長・理事となる
1976(昭和51)79歳 東郷青児美術館開設
1978(昭和53)二科展の開催のため訪れていた熊本で死去

〜八王子市夢美術館案内〜
八王子市夢美術館は、市民が気軽に親しめる「くらしの中の美術館」として、市街地に完成した再開発ビル(ビュータワー八王子)の2階に平成15年10月開館しました。
大きな施設ではありませんが、年6回程度の特別展(企画展示)を開催し、また年間を通して常設展(収蔵品展示)を行います。あわせてワークショップや講演会なども企画し、学習機会の場を提供していきます。
日常生活の中で様々な美術品とふれあい、豊かな感性を育み、魅力あるまちづくりの拠点として皆様のお役に立てれば幸いです。

八王子市夢美術館 アーカイブス これまでの展覧会の紹介 より
http://www.yumebi.com/acv31.html

東郷青児の作品

東郷青児 06世界変動展望 私の日々思うことを書いたブログです。 2009-05-13 00:20:13”より

東郷青児の作品

東郷青児の絵は独特の女性像が不思議な魅力を持っているので惹きつけられる。東郷青児の絵というと、奥に城が見え、目をつむった長いまつげの女性が描かれているものをよく目にする。それが典型的な東郷青児の作品だと思う。

目をつむった長いまつげの女性はアニメ・銀河鉄道999のメーテルに似ている気がするのは私だけだろうか。私から見た東郷の絵は、そのような女性像が非常に印象的である。しかし、私は東郷の描く女性像が不気味で怖いので嫌いだ。

私は以前に東郷の絵について不相当な値段で取引されているのを2度見たことがある。

一つはある絵画販売会で東郷青児の版画が5万円という破格の安さで売られていたことである[1]。はっきりいってあり得ない値段である。果たして本物か?値段を考えると偽物の可能性が高いだろう。

二つ目は競売で本物かどうか不明だが、東郷の絵と思われる物が約12万円程度で売られていたことである。これはテレビで放送されたもので、税金を払えない人の財産を公務員が差し押さえてネットオークションで競売したところ、東郷の絵と思われる絵が約12万円くらいで落札され、公務員が「意外と高い値段で売れた。差し押さえた財産の中で最も売却額が高かった。」と述べていた。テレビ放送では公務員も番組側も売却した絵が東郷青児の絵である可能性があることに全く気がついていなかった。

そのネットオークションで売られた絵は上記で述べた目をつむった長いまつげを持つ東郷独特の女性画であった。この女性像は東郷の特徴だから、知っている人が見れば「売られている絵は東郷青児の作品かもしれない。」と思うだろう。

ネットオークションで売られていたのが本物の東郷青児の作品かどうか不明だが、もし本物だったとすれば01いえ約12万円で売るのは破格の安さでの売却といえよう。本画だったらなおさらである。ベンツを1万円くらいで売るようなものである。ひょっとすると公務員は大損しているかもしれない。つくづく知らないとは恐ろしいことだと思った。

それはさておき、東郷青児の作品は不思議な魅力があるので一見の価値がある。

参考
[1]東郷青児の絵
[2]世界変動展望 著者:"東郷青児の版画が5万円?" 世界変動展望 2008.12.1

世界変動展望
私の日々思うことを書いたブログです。
http://blog.goo.ne.jp/lemon-stoism/e/4c2b6b5feb43c4e5e06d2c50ef778fea


東郷青児と竹久夢二

東郷青児 06ペンとクレパス”より

この2人のあいだに夢二の妻たまきをめぐって痴情のもつれがあったことは、あまり知られていませんね。一時期のことなので、それも無理からぬ話ではありますが、……でも確かに。

 大正3年(1914)。夢二はすでに売れっ子の絵描きで、妻たまきを「港屋」にすえ自作品やそれを印刷した絵葉書をブロマイドのように販売していました。そこへ出入りしていた青年がある日連れ立ってきたのが、友人の東郷青児でした。青児は当時、青山学院中等部を卒業したばかりの17歳。

 夢二は地方で作品展をひらくことが多く不在なことが度々あったので、いつしか青児が港屋の2階で夢二画を代筆するようになり、やがてたまきの「若いツバメ」のような関係になっていきました。それを嗅ぎつけた夢二が、地方展の予定を急遽変更して夜中に帰宅してみると、たまきと青児は情事の真っ最中。血がのぼった夢二は、そばに置いてあった木刀(あるいはバット)を握り、2人に襲いかかりました。仰天した青児は、脱いだ衣類をがばっと鷲づかみにするや、素っ裸のまま窓から飛び降り、夜道を遁走。息も白い真冬の出来事。それ以来青児は港屋に寄りつくことはなかったようです。

 その後東郷青児は、ヨーロッパから帰朝したばかりの山田耕筰に知遇を得て、キュビスムから、絵画の世界にすすんでいくことに。独学時代に描いた「自画像」や「コントラバスを弾く」などがそのころの作品で、まもなく、本格的に絵を学ぶためフランスへと旅立ちます。7年間の渡仏中は、殺しと男娼以外は何でもやったというくらいいろんな職で食い繋いでいます。のちに二科会を乗っ取る「屈強な素地」は、こんなところでも培われていたのかも……。

 いっぽう夢二も決して順調にはいかず、新境地を拓くべくヨーロッパ・アメリカを放浪するも、実を結びませんでした。愛人・彦乃を失い、宵待草風のモデルお葉とも別れ、晩年、長野奥のサナトリュウムで息を引き取ったとき、傍にいたのは元・妻のたまきただ一人。つめたい北風が吹きすさぶような、孤独な晩年でした。

    【補 記】
  『心淋しき巨人 東郷青児』(田中穣著:新潮社 1983)

 この本は絶版のようですが、著者は元「東郷青児の番記者」で、東郷青児の素顔と実像に迫る話が、さまざまな取材をもとに詳細に記されています。
 終生、絡み合っていたような「青児と夢二」。その見えない糸を軸にして、のちに結婚する夫人との自殺未遂や、その直後にはじまった宇野千代との同棲、別の男性の妻となっていた夫人との運命的な再会、宇野千代との別れ、二科会乗っ取りの顛末など、青児のプロセスを追いながら、終盤、愛娘につけた「たまみ」という名が夢二の妻「たまき」の名に酷似しているあたりでぐんと推理がすすみ、二科会の重鎮のひとりだった有島生馬(ありしまいくま/作家・有島武郎の弟で作家・里見 クの兄)による「青児とたまきの愛人関係」を証言する話を伝聞として紹介し、「青児と夢二」の終生の絡みを詰めたところで筆が置かれています。

謎解きのようなサスペンスタッチの構成も兼ね備える名著です。

“ペンとクレパス”より
http://sky.geocities.jp/ppp_dot/index1-seiji.html

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